バナナフィッシュとライ麦の思春期、その美しさ(田中俊英)




■親たちは自分の10代の出来事やその感覚をほぼ忘れている

僕は、ひきこもりや不登校の子を持つ保護者の面談支援をここ15年以上続けてきて、この頃は発達障害や児童虐待に関わる保護者への支援が増えてきたとはいえ、時々「古典的思春期」とでもいえそうな人々の保護者と出会うことがある。

そこでは、ある日突然親と会話しなくなった我が子に対して、超絶な戸惑いを抱いてしまう親がいる。

そこでは、そうした子どもを前にして、自分の思春期をまるで忘れている親がいる。

それはそれで、親としてはよくあるパターンなので、僕は親たちを応援する。我が子に戸惑い、その発言や行動に振り回される親たちに対して、思春期の子がなぜ親に口をきかないか、なぜ夜中に彷徨するか、その意味を熱心に語る。

J.D.サリンジャーの名作『ライ麦畑でつかまえて』の主人公が、ニューヨークを数日彷徨した意味について、サリンジャーの作品名は出さないにしろ、主人公のホールデン・コールフィールド的人物がなぜ大人社会に不信感を抱くか、同級生や教師たちの既存社会に対する寛容さについてなぜ「汚い」と感じるかについて、解説する。

親たちは不思議なことに、自分の10代の出来事やその感覚をほぼ忘れている。

いや、20代以降就職し恋愛し家庭を持ち子どもができ家を買い、といった常識的な社会人史を歩んできた人には、自分の思春期の鮮烈な感覚を忘れてしまうのは普通なのかもしれない。

思春期のあの感じ、大人や同級生たちの汚さや偽善、社会規範の窮屈さ、そして自分の中にもそれらが存在することの絶望感、これらに気づいてしまいながらも言語化できないあの「逢魔が刻」(大島弓子)の数年間は、忘れたほうが生きやすい。

■バナナフィシュ

『ライ麦畑でつかまえて』では、そうした大人世界を徹底的に批判する。そして、僕が面談仕事で聞かされる思春期の人々の彷徨と怒りと絶望は、基本的にライ麦のホールデンに似ている。

ホールデン的捉え方を「発達障害」として括る専門家もいるかもしれないが、そんなことはどっちでもいい。社会の汚さについて「こだわりが強すぎる」、突発的な行動に対して「見通しがズレた時のパニック症状」等、どう捉えてもかまわない。

ホールデンだろうが発達障害だろうが、いまの堅苦しい社会のあり方にノンを唱えている。それはかっこいい。

サリンジャーには、短編では「バナナフィシュにうってつけの日」という名作がある。

これは有名な自殺の物語なのだが、後半に出てくるフィービーという少女が、主人公のシーモアが提示するバナナフィッシュという架空の魚に対して、シーモアに気に入られたいために「バナナフィッシュが見えた!」と合わせてくるシーンがある。

思春期は、人にまともに返事しない。

が、思春期は、人をものすごく求めている。そして、自分が心を許した人々に全幅の信頼を置く。

「バナナフィッシュ」において、シーモアはフィービーを圧倒的に信頼していた。幼女を信頼するとはあまりに悲しいが、イノセンス(純粋さ)を追求する思春期としてはある意味自然だ。

■すべての大人は、10代には、瞬間的にバナナフィッシュは見えていた

そんな信頼対象のフィービーが、自分を気に入られたいために、架空の生き物を「見えた!」と嘘をつく。偽善を実行する。

そこに主人公は怒りを覚える。『ライ麦』のホールデンは大人社会全体の「汚さ」に怒っているが、『バナナフィッシュ』のシーモアは「仲間」の裏切り(バナナフィッシュが見えた!)に絶望感を抱く。

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p class=”nobr”>このふたつとも、僕は美しいと思う。

そうした感覚を、僕は保護者面談で波状的に反復して説明する(サリンジャーの作品名は言わないが)。最初はわけがわからない保護者たちも、繰り返しこの感覚を伝えられると、自分の10代を徐々に思い出し始める。

そうすると、自分の子どもが彷徨し泣き、親を無視するその感覚を少しだけ思い出す。すべての大人は、10代には、瞬間的にバナナフィッシュは見えていた。



「バナナフィッシュにうってつけの日」所収『ナイン・ストーリーズ』。これを10代で読むか読まないかで、その人の生き方はたぶん決まる。
「バナナフィッシュにうってつけの日」所収『ナイン・ストーリーズ』。これを10代で読むか読まないかで、その人の生き方はたぶん決まる。


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